Essay
- ・もうひとつの拷問部屋
- ・異文化サバイバルゲーム
- ・今年ばかりは
- ・JishukuとSakuraそしてGanbaro
- ・魔法の言葉
- ・ケンブリッジ日記最終章
- ・くっつきたがる日本人
- ・潜水艦の旅
- ・20世紀からのメッセージ
- ・株のクリスマスプレゼント
- ・究極のホスピタリティー
- ・言葉のバリアフリー
- ・日蘭人
- ・ポエトリー・カフェ
- ・ミューズたちの神殿
- ・野生のレイディ
- ・言語狩りのあとで
- ・ライシャワー夫人
もうひとつの拷問部屋 (2012年1月)
◆北海道新聞文化面コラム「魚眼図」
通訳や英語関係の講演後の質疑応答で「通訳と翻訳のどちらが好きですか?」と尋ねられると、迷うことなく「通訳です」と答える。
「どちらが辛いですか」の問いには「どちらも楽しくもあり辛くもある」と答える。
しかし「どちらが、やりがいがありますか?」と尋ねられると、答えに迷う。瞬間的な達成感は、通訳の方が大きい。
何日間も専門用語や理論の予習をして臨んだ学術会議の最後、司会者から通訳チームへの感謝の言葉に会場から拍手が起きることがある。
通訳者たちが密(ひそ)かに「拷問部屋」と名付けた同時通訳ブースの窓から、笑顔で手を振って応える瞬間の達成感と解放感は会議通訳者冥利(みょ うり)に尽きる。
しかし、それはチームの一員としての匿名の達成感であり刹那的なものだ。
一方、学術や文学関係の翻訳は、出版されれば翻訳者名が明記される。
一冊の本でも詩誌や学会誌の中の一章であっても、目に見える形で半永久的に静かな達成感を何度でもかみしめることも可能だ。
翻訳は自分と向き合う孤独な作業に思えるが、知的好奇心を満たしてくれる体験であり、原作者やいまだ見ぬ読者との声なき対話でもある。
現在、ある哲学的な詩人論の翻訳と格闘している。
原本の英語論文は一文が5行から10行にわたる難解な文章で、一ページを納得がいくよう訳すのに数日かかることもある。
締め切りを過ぎても翻訳は完成せず、短い眠りの中にまで原本の表紙にある詩人の顔が現れて「早く訳せ」と責める。
この苦しみに比例して、完成後の達成感も大きいと信じ、今はもうひとつの「拷問部屋」と化した書斎で葛藤する日々である。
(熊谷ユリヤ・札幌大教授=異文化コミュニケーション論)
▲ Index
異文化サバイバルゲーム (2011年9月)
◆北海道新聞文化面コラム「魚眼図」
3週間にわたる壮大なサバイバルゲームが完結した。
オーストラリアの協定大学で短期留学を終えた帰途の機内、二十数名の学生たちは眠り続けた。
緊張続きの日々を乗り切った後の脱力感だったのかもしれない。
留学プログラムは、劇的な効果を目指すものだった。
1週目に難易度の高い多文化多民族主義の講義、教室を出て聞き取り調査、地元学生と多文化地域へ。
2週目は政治・社会の講義と首都訪問、異文化観察の結果を口頭発表。
3週目は比較的平易な生活様式、余暇、家族、価値観の講義と、異文化リポート作成。
この変則的な方法は一週ごとの進歩を実感させるためだ。
英語圏の外で英語自体を学ぶことは、水泳に例えればプールでバタ足や呼吸法の練習をすることに似ている。
一方、現地の大学の講義を聴き発言や発表をし、リポートを書き、地元学生と交流し、ホームステイで自分のニーズを主張するなど遠慮や躊躇(ちゅう ちょ)を捨て全て英語で行うことは、沖で船から投げ出され必死で泳ぐことに似ている。
リスクを伴うものだが、授業で学ぶ異文化知識がセーフティーネットとなる。
一歩教室を出れば多文化・多言語社会が広がる中で、それを生き抜く手段であり結果でもある英語力と異文化対応能力を皆必死で身につけた。
試行錯誤の連続でも経験に勝る教師はいないので、犯罪や事故に巻き込まれる危険性さえなければ引率教員も必要以上の手助けをしないよう言い渡さ れ、当初は私も歯がゆい思いをした。
しかし、私がかの地で過ごした3年間分に相当するほどの知識を3週間で身につける異文化異言語サバイバルゲームを終え、飛行機を降りた学生たちは 国際人の貌(かお)をしていた。
(熊谷ユリヤ・札幌大教授=異文化コミュニケーション論)
▲ Index
今年ばかりは (2012年6月)
◆北海道新聞文化面コラム「魚眼図」
生きた言葉を変換する通訳者の習性なのか、講演会や朗読会は無意識のうちに英語に同時通訳するつもりで聞いてしまう。
中でも胸を打つ内容に触れると終了後、記憶を頼りに英訳して残そうとする翻訳者の自分がいる。
道立文学館で開催中の特別展「日は過ぎ去って僕のみは|福永武彦、魂の旅」にちなんで、子息の池澤夏樹氏が両親の詩を朗読する「作家による朗読 会」は、それを実感する場となった。
会の終わり近く、池澤氏の自作詩「今年ばかりは」の朗読があった。
それに先立ち、大震災を予感したかのようなこの作品の解説があった。
上野峯雄が藤原基経の死を悼んで詠んだ「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け」(古今集)を挙げ、源氏物語で光源氏が藤壺をしのん で「今年ばかりは」と口にする場面に触れた。
私の頭の隅の同時通訳機能は、埋葬の地を示す深草、桜が象徴する無常感などの文化的文脈を織り込もうとしていた。
しかし「作家ならではの詩」が深い哀悼を込めて朗読されると、生身の作者の声の効果と会場を満たす祈りに引き込まれ、気づけば英訳を忘れていたの だった。
その夜、記憶の断片を頼りに翻訳を試みた。
「今年ばかりは」と言うだけで、上野の三十一文字に込められた嘆きや想いの全てを述べたことに等しいという約束事や、「心ある桜が歌に応えて薄墨 に色を変え喪に服した」という逸話。
そのような背景知識を外国語にすることの奥深さとも向き合った。
翌朝、既に花を見送った桜の木々に、満開の薄墨の桜が見える気がした。
奇しくも東日本大震災3カ月を迎えた日だった。
▲ Index
JishukuとSakuraそしてGanbaro (2011年4月)
◆北海道新聞文化面コラム「魚眼図」から
「今日は晴れ晴れした。桜の花のようだ」とTV画面の中で笑顔を見せたのは、復興を誓う花見会を提案した被災者だった。
自粛ばかりしていてはだめだ。
一歩でも二歩でも前に進まなければと皆さんに伝えて」という言葉は、自らの決意であると同時に「自粛の自粛」に踏み切れずにいた人々への思い遣り にも聞こえた。
大惨事を契機に日本人の精神性や日本の社会現象が海外で話題となり、jishuku等、英訳しきれない日本語が国際語になった。
「自粛」の辞書上の訳語は、「自己規律」「自制」「自発的拘束」の意味にしかならないため、「哀悼の意、連帯感、ためらいを伴う集団主義的な社会 現象」「広く行き渡った強迫観念」等の説明が添えられた。
shikataganaiには「逆境に直面した日本人が運命を受け入れて口にする諦めと悟りを表す言葉」gamanは、「自分より苦しい状態に置 かれた人たちを気遣って耐える誇り高い精神」という説明も。
hanamiまでがJishukuの対象になると、Sakuraは「春に新年度が始まると見なす日本人にとって出発と希望の象徴」「来世を信じる 日本人にとり永遠の命の象徴」「禅に通じる美意識の象徴」「武士道を起源とする死生観の原型」等の解釈もあった。
最近よく言及されるのは「復興の合言葉」、Ganbaro NIPPON!(がんばろう ニッポン!)だ。
これもさまざまな英訳があるが、そこに込められた祈りは一つである。
(熊谷ユリヤ・札幌大教授=異文化コミュニケーション論)
▲ Index
魔法の言葉 (2008年4月)
北海道新聞文化面コラム「魚眼図」から
ヨーロッパ出張の帰路のこと。
客室乗務員が「ビーフとフィッシュどちらがよろしいですか?」と英語で尋ねていた。
「ビーフ!」「フィッシュ!」と答え無言でトレーを受け取る日本人乗客達を見て、隣席の幼児が母親にイギリス英語で言った。
「魔法の言葉(マジック・ワード)を忘れてるね」。
『ハリー・ポッターと秘密の部屋』の原書でも、主人公が食事の場面で使った慣用表現だ。
「魔法の言葉」とは「~プリーズ」「サンキュー」など、英語を話す幼児が教え込まれるコミュニケーションの道具。
ちゃんと使えば感じが良いし望みがかなう大事な言葉を言い忘れると、親や保育園の先生に「魔法の言葉は何?」と注意される。
サービスの提供者と受け手が日本より対等で、言葉が重要な文化と、「場」に応じて上下関係が入れ変わり、うなずいたり首を振る方が自然なこともあ る日本型コミュニケーションの違いだ。
客室乗務員は慣れているが、地上では魔法の言葉を忘れた上、緊張して力が入ると横柄に響きかねない。
「レッドワイン!(赤ワインくれ!)」より「~プリーズ(お願いします)」「サンキュー」と受け取り「カフィ?」と聞かれれば「ノー!(いらな い!)」より「ノー・サンキュー(結構です)」など、確かに一言で雰囲気が変わる魔法だ。
小学校での英語必修化に向けて文科省が試作した教材「英語ノート」の内容が発表された。
コミュニケーション重視で、あいさつに始まり自分の表現で将来の夢も語れるようにするという。
大人になって「魔法の言葉」を使いこなせる日本人が増えるような指導も期待したい。
(熊谷ユリヤ・札幌大教授=異文化コミュニケーション論)
▲ Index
ケンブリッジ日記最終章 (2006年4月)
北海道新聞文化面コラム「魚眼図」から
英国での一年間の在外研究を終えて帰国し、自文化復帰の虚脱感を感じる間もなく新学期。
この一年間感じたことをアップしていた研究室ウェブサイトの「ケンブリッジ日記」。
最終の書き込みをしようと空欄を見つめるうち、意識下に封印されていたものがビデオの巻き戻し再生のように襲ってきて、何も書き込めずに日記を削 除した。
「ケンブリッジ大学では、本当の英国は体験できない」とも言われた特殊な環境でのわずか一年の滞在。当初は「これまで住んだ外国に比べれば島国の 高文脈社会で、文化や価値観や対人コミュニケーション形態も日本との共通点が少なくない」という先入観の崩壊に衝撃を受けた。
その後も制度や価値観の違いに戸惑い、生活環境の変化や物価高に苦しみ、大学の知識階級社会で漠然とした劣等感を感じ、動物愛護や戦争を扱うメ ディアの否定的な日本人観に居心地の悪い思いをし、日本の現在から取り残されるという焦燥感もあった。
地元の友人も増え、逃げ場のない思いが薄れた後は、世界各国からの研究者と接することで多様な民族・宗教・慣習・対人コミュニケーション様式の中 で、異なる価値観に対する寛容さやその成立の背景や理由を学ぶ余裕もできた。
「極東からの逗留者」として英文化の中の多文化に住んで、「日本とは? 日本人とは?」という疑問を発し答えを探し続けたこと自体が貴重な体験 だったのだろうか?
未知の対象の特質は、既知の対象との比較によってのみ明確になるのだから。
今は空白の一年に思えるものが何であったのかを実感し、「ケンブリッジ日記」の終章を書くのはもう少し先のことになりそうである。
(熊谷ユリヤ・札幌大教授=異文化コミュニケーション論)
▲ Index
くっつきたがる日本人 (2006年9月)
◆北海道新聞文化面コラム「魚眼図」から
モンゴルで開催された国際会議には、四十カ国から約二百三十名が参加した。
パーティーや食事会は着席の自由席。
開会日、空席の多いテーブルに座って良いかと儀礼的な確認をした。
笑顔で招かれた直後、私の胸の名札のJAPANの文字を見たヨーロッパ系参加者は、済まなそうに断ったのだ。
理由を尋ねると、日本人が一人でも同席すると他の日本人も次々に加わり、テーブルが「日本村」になってしまった経験があるからだという。
「くっつきたがる日本人」との先入観は定説化しているものの、これは日本人だけの傾向ではない。
アジアやラテンアメリカの参加者の中には、率先して席取りをし自分たちだけで盛り上がる排他的な集団もある。
一方、日本人の場合は成り行きで形成される消極的集団で、席が足りなくなった他国人が加わると歓迎するが、さもなければ孤立してしまう。
日本人同士で固まる現象は、「英語力不足」と「集団依存主義」との関連で説明されることも多いが、上記の経験を切欠に観察すると複雑な背景が 見えてきた。
「受け身の英会話はできても発信できず、気を使って疲れる」「話題に溶け込めずに雰囲気を壊しては申し訳ない」など他国人に対する遠慮。
他の日本人との関係では、「仲間を見捨てて自分だけ国際交流の抜け駆けするのは失礼」などの配慮もあるようだ。
同国人同士、仲間意識が芽生えて行動を共にするのは自然なことかもしれない。
それでも、せっかくの国際交流の場なのに日本的な配慮と遠慮が優先するのはもったいない。
英語力に関係なく、国際交流を苦にせず英語の通じない外国人とも交流する日本人が増えてほしい。
(熊谷ユリヤ・札幌大教授=異文化コミュニケーション論)
▲ Index
「潜水艦の旅」(2002年8月)
今年の夏、タイで開催された国際桂冠詩人会議に個人参加した後、アジア詩人会議のため中国シルクロードを訪れる日本使節団に合流した。
タイでは、熱帯雨林を流れる川辺の文化村に滞在し、会議の合間に主催大学の学生達に案内されて、近くのお寺や学校や市場へも出かけた。
屋台に腰掛けて土地の人たちと話しをし、その日常生活を垣間見ることができた反面有名な観光地を訪れる機会はなかった。
一方、中国の旅は、日・中・韓・モンゴル参加による全体会議、史跡や砂漠の史跡での自作詩朗読を含め、自由行動無しの完全パッケージ会議ツ アーという私には初めての体験だった。
一日に何度も集合写真を撮り、食事は高級レストランで毎回同じような料理を同じ顔ぶれで同じような話をしながら食べる。
買い物は、ガイドの進める土産店で決められた時間内で。
エアコンが効いたバスの窓から埃っぽい道端で生活する人々を眺めながら、ダグラス・ラミスが「潜水艦の旅」と呼んだ、「濡れずに海中を疑似体 験する異文化通過」をしている自分に気づいた。
「自国の環境を、異国に持ち込む文化的傲慢さは、生の異文化に直接触れる機会を失わせる」という考え方である。
しかし、言葉や衛生面や安全面の心配なしに効率的な旅が比較的安価に出来、団体内の親近感が深まる。
ガイドの流暢な日本語で、詩碑の歴史的背景から道端の草の名前まで膨大な量の情報も流れ込んでくる。
行き先や目的によっては、こんな旅も必要なのかもしれない。
どちらの旅の形態がより有益なのか、心に残るのかは年月を経てみなければ分からない。
▲ Index
20世紀からのメッセージ (2001年1月)
新世紀最初の日、私にもタイムカプセル郵便が届いた。
消印は昭和六十年九月十四日、どこか見覚えのある筆跡で書かれたあて名。
封筒には「20世紀のわたしから21世紀のあなたへ」などの印刷はあるが、差出人は不明。
「変色防止のため密封保管されていた、国際科学万博記念の郵便約二百三十八万通が元旦に配達される」という報道に「さすが日本!このような企 画をして、予定通り確実に実行できる国は、世界中に一体何カ国あるだろう!」と感心してはいたが、その一通が私あてだったとは!
四度の住所変更にもかかわらず十五年の歳月を経て配達された、謎の郵便の封を切る。
二枚の便箋を埋める細かい字は当時の自分の筆跡。すっかり忘れられた20世紀の私からのメッセージだった。
「この手紙を読む私は多分…」で始まる様々な予想は、現実とは大きく食い違っていた。
大学教員になることや詩を書くことなど、当時の私には思いもよらなかったのだから無理もない。
手紙は「自分が選んだ生き方が正しかったと、十五年後にも自信を持って言えるのかどうか知りたいのです」と結ばれており、これには胸が一杯に なってしまった。
詩の世界ではニーチェの「永遠回帰」の思想に触発され、「時空を超えて」「数々のわたしが」「過去と現在と未来がひとつに」「突然の覚醒」と いった類の表現を多用している自分が、言葉を超えた所でそれらを実感させられた。
小さな偶然の積み重ねに見える人生も、ニーチェの言葉を拡大解釈すると、「我々は必然であり一片の宿命である」ということになる。
二十世紀の自分を抱きしめ「選んだ生き方は正しかった!」と言ってみたい二十一世紀の自分がいる。
▲ Index
株のクリスマスプレゼント
以前、ラジオの対談番組で「ニューヨークに住む知人が小学生の子供たちへのクリスマスプレゼントとして、希望の会社の株を買い与えた」という エピソードを紹介した。
大好きな清涼飲料会社の株を買ってもらった二人は、ニュースや株の値動き情報チェックを日課にしたという。
放送を聞いて教育上問題ではないかという声が寄せられたが、父親である知人がコンピューター入力のパスワードを握り、投資コンサルタント役と して発言権を持つため問題ないということだった。
昨年は、九月のテロの余波に苦しむ航空会社の株も買った。
業界が立ち直りかけ、小額の利益が出た時点で利益の20%相当額をテロ犠牲者支援の民間非営利団体(NPO)に寄付させたという。
今年のクリスマスが近づきユナイテッド航空が倒産して、その後が気になり知人に連絡をとってみた。
すると、この辺りで損をすれば投資の楽しさだけではなく怖さも教えられるという返信。利益の社会還元と同様に貴重な社会勉強だという。
また、「クリスマスは分かち合いの季節」なのだから「株の利益が無くても家のお手伝いでためたお小遣いの20%をNPOに寄付したい」と子供 たちからの提案が。
そしてこの提案は、父親である知人にとって今までで一番うれしいクリスマスプレゼントの一つだという。
文化や価値観が異なれば、家庭での社会勉強に対する考え方が違うのも当然。
アメリカ社会で親が誇りに思う方法が、日本では教育上問題とみなされたとしても仕方が無い。
それでも、家庭での社会教育に父親が果たす役割という面ではほほ笑ましく、クリスマスの意味という面からは、考えさせられる話ではある。
▲ Index
究極のホスピタリティー (2002年1月)
今年も、海外で開催される国際会議や大会の案内が届いている。
会場での発表や交流自体が重要なのは勿論だが、開催地が特に関心がある国でもなく、飛行機の接続も悪い地方都市で、英語圏もあまり通じそうも ない場合、正直気が重いこともある。
しかし、振り返ってみるとそんな土地にはいつも自然発生的で素朴なホスピタリティー(もてなしの心)があった。
たとえ運営や受け入れ体制が不十分でも、ホスピタリティー産業が発達した土地で開かれるソツのない会議には無い何かが残り、結果としてその土 地が大好きになった。
それは、日本の感覚で言えばボランティアに当たる手弁当の人たちに「自分はボランティア活動をしているのだ」という意識も気負いも無い事かも しれない。
組織されたボランティアの「国民・市民代表として、この機会に友好を促進し文化を理解してもらうため頑張ろう!」という意気込みは、「会議や 大会がそこで開かれるので仕方なく来た」というビジターの心で空回りする事もある。
「遠くから来たお客さんを仲間にして、一緒に楽しもう」という日常レベルのホスピタリティーが嬉しいこともある。
北海道・札幌でも、今年は大規模な大会・会議が相次いで開催される。
機能面の充実による成果と、草の根交流の思い出を両立させるには、組織力・運営能力・ホスピタリティー産業・自然体のホスピタリティーのバラ ンスが重要である。
経験豊富なこの地方・都市にとっても、究極のホスピタリティーはシナリオのない手探りのドラマとなる。
▲ Index
言葉のバリアフリー
海外旅行の際「SMOKE FREE」とある注意書きを見ても、「自由にたばこを吸っていい」と勘違いしてはいけない。
「フリー」は「?から自由」の意、つまりそこは「煙から自由な」「禁煙」の場所。
同様に「バリアフリー」は、「障壁から自由」、つまり障害のある人や高齢者が物理的・心理的障壁を感じない状態を指す。
先月開催された障害者インターナショナル(DPI)世界会議札幌大会ではコミュニケーションのバリアフリーに配慮し、これまで通訳者として参 加した国際会議では経験したことのない多様な方法によるコミュニケーション・ネットワークが構築された。
百八カ国、約三千人が参加する会議中の外国語の障壁解消は、地元のPCO(プロフェッショナル・コングレス・オーガナイザー)会社などのコー ディネートによる。
開会式・閉会式では、日・英・仏・スペイン語に加えて中国語と韓国語の同時通訳が行われた。
分科会では、日・英語間は三十人、日・仏語間と日・西語間は、それぞれ十五人、合計六十人の会議通訳者が同時通訳を行った。
一部会場では、韓・中語の簡易同時通訳も。
また、札幌国際プラザなどによる、英・西・中・独・仏・韓・露・インドネシア語等、のべ三百五十六人の外国語ボランティアも活躍した。
一方、聴覚障害などの障壁解消のため、スクリーンにはプロのリアルタイム・ライターによる英語の字幕と日本語の要約筆記が映し出され、国際手 話と日本語手話による通訳も行われた。
ここでも、多くの地元のボランティアが活躍した。
「バリアフリー国際都市サッポロならではの大成功」のうちに会議が終了したことが本当にうれしい。
▲ Index
日蘭人 (2001年2月)
北海道新聞文化欄「魚眼図」より
氷点下十四度の夜。湖を覆う氷の上、雪のステージ。
通訳メモ用のペンのインクが凍って出ない。駐日オランダ大使の、
英語によるスピーチを日本語に通訳する場面。原稿もメモもなく、
緊張して待ち受ける私の耳に聞こえてきたのは、決して流暢ではないが、
正確で力強い日本語だった。
それは、千六百年のオランダ船漂着で始まった日蘭友好四百年を記念する行事の一つ、
阿寒国際スケートマラソンのフィナーレだった。
前日のレセプションや懇談会のように、冒頭部分のみ日本語で、
すぐ英語に切り替わるのだと思っていたが、日本語は続き私は次第に大使の言葉に引き込まれていった。
「.....日本人はオランダ人を本から学びます。背が高い・髪が赤い・鼻が高い。
でもオランダ人皆がそうなのではありません。一人ひとり色々です。ここにオランダ人はいません。ここに日本人はいません。皆、日蘭人です。」
話の区切り毎に会場から拍手。
私も通訳者から聴衆のひとりになって白紙のメモ帳を収め、マイクの側で大きく拍手をした。
寒くても手袋をとっていて良かったと思いながら。
会場にも手袋を外して拍手する人が見えた。
次に聞こえてきた外国語が理解でず慌てたが、オランダ語だった。
同じ内容をオランダ選手たちのために括り返されたらしく、再び拍手。
殆どのオランダ人は英語が解かるとはいえ、やはり母国語が直接胸に響くらしい。
手袋をつけての拍手より素手の拍手の方が大きく響くように。
ステージを降りた大使の前には、握手を求める日蘭人たちの長い列ができた。
やはり、本人の肉声が伝えるメッセージに比べれば、通訳は必要悪ではないまでも次善の策に過ぎないのかもしれない。
▲ Index
ポエトリー・カフェ(2000年5月)
東京の学生街にあるアメリカ人が経営するカフェで、英字新聞の詩評担当者が企画する月例ポエトリー・リーディングが開かれる。
私がゲスト出演した夜も、様々な国籍や世代の人たちが集まった。
ジョークを交え語りかける形式の自己紹介や詩の紹介に、さっそく客席からユーモアたっぷりの答えが返ってきた。
明るい詩の上演中は店中が拍手や手拍子や掛け声で盛り上がり、じっくり聴く詩の時は視線やボディーランゲージで反応してくれた。
詩が終わる毎に客席からコメントや質問が飛び出した。
一瞬、そこが懐かしいアメリカやオーストラリアのポエトリー・リーディング会場であるかのような錯覚を覚える程だった。
「日本の詩の朗読会って、どうしてツマラナイのが多いんでしょうね」。海外のリーディングを知るN氏がポツリと言った。
確かに、「僭越ながら読まさせていただきます」という神妙な出だしに続く読み手と聞き手が視線を合わせることの殆どない淡々とした朗読の後 「大変失礼しました」の挨拶、型通りの拍手という場面もある。
じっくりと詩そのものを味わうには、余計なトークや大げさな表現は逆効果だという批判も耳にする。
自己を他人に向けて開示・拡張し、言語・非言語チャンネルを駆使した双方向コミュニケーションを重視する西洋文化。
集団の中に自己を埋没させる儀式的コミュニケーションを重視し、不特定多数の他者に対しては自己の内部を開示しないことを美徳とする日本文 化。
どちらが良いかは別として、朗読会に見る違いは対人関係の価値観の違いでもある。
▲ Index
ミューズたちの神殿
博物館・美術館・文学館などを意味する語「ミューズィアム」の語源は、ギリシャ語の「ミューズたちの神殿」である。
ミューズは、オリンポス山の主神、天空の神ゼウスの娘たちで、詩・音楽・舞踏・歴史などの芸術や学問をつかさどる九人の女神たち。
日本ではこれらの「神殿」に対して、親しみやすい気軽に立ち寄れる場所というイメージはあるだろうか?
特に関心のある展示があるときだけ、神妙な顔をして訪れる場所にはなっていないだろうか?
少なくとも私にとってはそうだった。
パリ、ボストン、ロンドン、シドニーの友人たちが、期せずして、「にぎやかな神殿」を待ち合わせ場所に指定してくるまでは。
そんな神殿の前庭には、パントマイムや手品、朗読を始めさまざまなパフォーマーが集い、子供たちが芝生や噴水で遊び、入り口の石段や、おいし いコーヒーを出すカフェにはのんびりくつろぐ人たちがいて…。
札幌の中島公園の一角にある北海道立文学館は、庭としての公園をはじめ、このような場になりうるハードウエアがそろっている。
最近「横文字」の詩の朗読と「ジャズ」のコラボレーションのイベントも開催され、これまで文学館になじみのなかった人たちが集った。
日本の文学館ではあまり例がないイベントではあるが、「ミューズイック(音楽)」という語も「ミューズの技術」に由来している。
親しみやすいイベントで初めてそこを訪れた人たちが、デートや待ち合わせのために再び訪れることで、ソフトウェアとしての「ミューズィアム」 が、社会にインストールされることだろう。
▲ Index
野生のレイディ(2000年1月)
「このたび、われらが白石かずこさんが、紫綬褒章という何やら難しい賞を受賞されました。何はともあれ、その賞を肴にお祝いの会をいたしたく 存じます」との招待状を手にたどり着いた会場は、ステージがある新宿の洋風居酒屋。
約九十名の出席者の顔ぶれはこの詩人に相応しく、文学・出版関係のみならず音楽・美術・映画・舞踏その他の分野のアーチスト等、また国際色も 豊かだった。
「ノーベル賞を受賞されたというのなら驚きませんが、これはお国の為に尽くしたお爺さんがおもらいになる賞だとばかり思っていましたので本当 にびっくりしました」という乾杯の挨拶に続き、ユーモアと友情溢れるスピーチが披露された。
「異端として非難されることも多かった詩人の異質性を受け入れることが出来るようになった日本という国の為にお祝いを」という友人代表の言葉 に、カナダで育ち帰国して、自分と同じように帰国子女としていじめにあったかもしれない少女を抱きしめてあげたいという衝動を覚えた。
詩人は、原風景に忠実に自分の生き方を貫いた。
日本社会ではタブーに近かった表現の為に自ら差別や偏見に遭いながらも、差別を受けたり虐げられた人々をうたってきた。
会場では、詩人のテーラー・ミニョン氏による「野生のレディ:白石かずこに」と題した英詩の発表があり、経田佑介氏による訳詩を私が朗読する ことになった。
「あなたの作品は世界霊魂そのもの」「すべてを包容する『開かれた処女』/あなたは私たちをそこへ誘いつづける」。
最後の一節を読み終えて顔をあげると、詩のなかで「大地母神」にも喩えられた「野生のレディ」が微笑んでいた。
▲ Index
言語狩りのあとで(1999年4月)
オーストラリアの地方都市を結ぶ小型機の中で、十歳ぐらいの少女が母親に、
「あの副操縦士は、女の子だからパイロットになれないの?」と尋ねた。
母親は、「そんなことを言うと政治的に正しくないと言われてしまうわ」と笑いながらたしなめた。
機内は、たちまち「PC(ポリティカリー・コレクト=政治的に妥当な)語」の話題でにぎやかになった。
「女だからというのはもちろんん禁句だし、アメリカではガールという言葉が女性の品位を傷つけるから、プリ・ウーマンと言うべきだと言う人も いるらしい(笑)」
「老人は歳月に祝福された人か歳月という困難に立ち向かう人、やる気のない人のことは、異なった動機を持つ人(笑)」「デブは異なったサイズ の人、ブスは美容的に異なる人って呼ぶらしいね(笑)」
社会的に弱い立場にある有色人種・障害者・女性・同性愛者などに対する差別是正を目的としてアメリカで始まったPC運動は、極端な言葉の置き 換え論争に発展した。
政治的妥当性を徹底しようとするあまり、差別を示唆すると考えられた言葉をだれも非難できないような婉曲(えんきょく)表現に置き換えていっ たのである。
言語狩り・言語弾圧とも呼ばれたこの運動は、逆にアメリカ社会特有の複雑で、偏狭な差別構造を強調するという意見も多かった。
ばかげていると言われながらも、社会的には一定の成果をあげたPC論争は現在一段落し、あの機内でのようにジョークのネタとして話題にのぼる ことも多いようである。
▲ Index
ライシャワー夫人 (1998年9月)
ボストン郊外のバスターミナルで私を出迎えたハルさんは、小型日本車の運転席から笑顔で手を振ってくださった。
「ライシャワー元駐日米国大使夫人」という響きから想像していた近寄り難いイメージはなく、暖かいお人柄に触れて私の緊張も和らいでいった。
その訪問の目的は、国際教育交流プログラム「インターンシップ」のスクールインターン参加認定書に名誉会長の署名をしていただく事と、プログ ラムの現況報告だった。
大学時代、世界の人々との相互理解の重要性を痛感したハルさんはその為に生涯を捧げようと決心したという。
それ以来約五十年を経て、国際理解の必要性は世界の平和を左右する重要な問題にまで発展したと感じておられた。
そのような時期に、「真の国際相互理解は教育とコミュニケーションによってこそ達成される。
外国の言葉や文化や生活について学ぶのみならず、その国の人々とコミュニケートしなければならない」という信念のもとに、名誉会長をお引き受 けくださったのである。
庭の小鳥の囀りが聞こえる居心地の良い居間で、何百もの署名をする手を度々止めてハルさんはプログラム・コーディネータ・カウンセラーとして の私の話を聞いてくださった。
自らの体験に照らし合わせた感想や助言もあった。
署名が済んで国際理解教育の話になると大使も加わって、三人でのお喋りになった。
その後何度か御自宅を訪問したりランチをご一緒する機会があったが、この日のことは忘れられない。
帰り際に三人で撮った写真を取り出し、お二人の著書の扉ページを開いて署名やメッセージを読むと、ハルさんが大使と共に神の御許御許で安らか である姿が見える気がする。
▲ Index

